ビル・カニンガム&ニューヨーク


ちょっと、ここのところないぐらい感動した。

「心が洗われる」っていう言葉がまさにぴったりくるような気持ちになった映画だった。映画というか、ビル・カニンガムという人とその生きざまに。心の底から、こういう人になりたいと思った。自分もこれから一生仕事をしていくうえで、少しでもビルに近づけたらな、と思った。


「とても幸福で善良な男に関する映画」。

おそらくビル・カニンガムと同じように、自分の好きなことをひたすら情熱と愛情をもってやり続けて、今年70歳で死んでしまった映画評論家のロジャー・エバートによる『ビル・カニンガム&ニューヨーク』評の冒頭の一文だ。

私は見てすぐにtwitterで「こんな天使みたいなプロフェッショナルがこの世にいるなんて」と書いたけど、だって「天使」と「プロフェッショナル」って普通相容れないものでしょう。


「ニューヨーク」「ファッション」「ストリート」「写真家」。

こうした言葉から連想するのはもっとエッジーで、よくも悪くもシニカルだったり傲慢だったりするもので、もちろんそれも個人的には好物なのだけど、今回はとにかく天使のようなビル爺さん(と、敬意を込めて呼ばせてもらう)の優しさとチャーミングな笑顔と、そんな彼を愛する人々と、手垢のついていない本物の「清貧の思想」に泣けてしょうがなかった。


たくさんの至言名言がちりばめられているのだけど、自分にいちばん響いたのは「美を追い求める者は、必ずや美を見出す」という言葉。ここで言っている「美」とは、もちろん外側の美しさも含まれるだろうけど、それだけではない。すべての仕事(あるいは生き方と言ってもいい)にはその仕事なりの美しさがあるわけで、それを孤独と引き換えに追求する人間は必ずや報われるんだよ、と言ってくれている気がした。この美はときには「完璧さ」とも言い換えられるかもしれないが、「完璧さ」はともすれば冷たく、決して完璧にはなりえない人間を拒絶することもあるけれど、ビルが追求する「美」はどこまでも優しく慈愛に満ちている。


そういう意味でも面白いなと思ったのは、映画に登場するアナ・ウィンターの存在。彼女は多くの人にとって、ビル・カニンガムとは正反対の、ファッションの権威や完璧さを象徴する存在だと思うのだけれど、そんなアナもビルの前では子どものように可愛らしく見える(ように演技しているのかもしれないが…笑)。でも『ファッションが教えてくれること(The September Issue)』を見たときも思ったけど、ビル・カニンガムであったり、グレイス・コディングトンであったり、本物の才能を持つ純粋で美しい人には自分はかなわないことをきっと知っているんだろうな、アナ・ウィンターという人は。


それともうひとつ、印象に残ったのは、「金なんか安いものだ。金に触ってはいけない。高いのは自由だ」という言葉。ニューヨークの社交界の面々を取材するときも、パリの清掃人が着る青い上っ張り姿でパーティ会場に入り、どんなに薦められても料理やワインどころか、水さえも口にしないというビル爺さん。客観的で自由な視点を保つためにそう決めたというのだけど、なんというストイックさ。でも、無理してそうしているのではなくて、それでもとにかく楽しそうなのだ。


仕事(というか好きなこと)が楽しくて、それをやるのに忙しくて、食べ物にも住むところにもこだわりがない。いつも安いデリやカフェでコーヒーとサンドイッチを食べている姿ばかり。本人の言葉を信じるならば、80歳を過ぎる今日まで恋愛関係にあったこともない。家族も子どももいない。


そういえば、昔一緒に仕事をさせてもらったとある一流写真家の人を思い出した。彼は下戸だというので、当時はまだ30過ぎの小娘だった私が失礼にも「お酒飲めなくてつまらなくないですか?」などと聞いたところ、「酒なんか飲むより楽しいことがたくさんあるから」と言われたのだった。まあ、酒を愛している私としては、こればっかりは譲れないけど、そう言い切れる凄さはわかるのだ。